人と自然と建築と

nonobe's diary

Vol.60「endless thema - 55」(10年12月)

-------風景の予測

 


寒さも一段と深まり、鉢植えのヤブコウジの実が赤みを増して来た。
碧々とした葉に合い混じり色味を帯びた葉と赤い実が、冬の到来を告げるかのようだ。
椿のワビスケのつぼみも大きくなってきた。生け垣のサザンカも少しずつだが咲き始めている。


何日か前に北山の橋を歩いていたとき、川面に鴨が沢山いるのが目に止まった。
よく見ると、川のなかには大小の鯉も群れていた。

それをふと思い出しデジカメ片手にぶらりと出てみた。
場所や時間にも依るのだろうが、川には沢山の鴨が群れている。
川のなかには大きな鯉が泳いでいる。以前に水面から水しぶきを上げ
何やら大きなものが飛び跳ねたのを視た事があるが、
間近で泳ぐのを視て初めて記憶が繋がった気がした。
黒いのでよく見ないと分からないが、
なかには70センチ以上はあると思われる巨大な鯉も泳いでいる。




その脇の河原で公園施設の工事がおこなわれている。
南から徐々に北へと進んでいるようである。
元のなつかしさを感じる風景から作られたものへと変わろうとしている。
それは真新しさへの違和感を覚える。
来年度も鴨川護岸整備に府の補正予算の大幅アップが議会に提示されたらしい。

先に、河川の安全性や維持管理をを基本とした整備に予算が費やされ、
後に公園等のビジュアル的な整備に使われるのが筋だが、
方図もなく真新しくされた芝生や植樹、散策路そしてベンチなどが先に目につく。


護岸

護岸

工事が終った数ヶ月後には、過去の記憶は薄れ新しい風景が
ずーっと以前からあったかのように思うようになり、
前の風景は記憶のどこかに埋もれてしまう。
問われない限り、人が持つ古きものへの安堵感はそれを許容する。


護岸

それを思えば公園施設の整備がなされていく事が良いか悪いかは別として、
必ずしも否定されるようなことではないのかもしれない。

知らず知らずのうちに自然となじみ行く風景は、歴史に刻まれていくのだろう。
幾年という月日が流れ、作られた木立が育ち、
ベンチや小径が自然と経年変化をしていくなかで
「真新しさ」という意識は無くなっていく。
出来あがった時の姿をそのまま維持していくだけのために
繰り返されるメンテナンスは好ましくない気がする。
建築も同じ。
数十年が過ぎ、経年変化により美しく老いていき、当たり前の風景となっていってほしい。

「真新しさの違和感」というのは、良い意味でも悪い意味でもなく、
廻りになじんでいないというだけの感覚だ。
時が経ち「新しい」から「落ち着いた」に変わっていけば
余程劣悪なものではない限りはそのことを意識することはない。

逆に言えば、いかに旨く年をとらせていくかという予測が必要だ。
この予測こそがものの善し悪しを決める手だてではないだろうか。
と言いつつも「整備されすぎたものへの違和感」は記憶から拭いきれない気もする。