人と自然と建築と

nonobe's diaryーArchitect Message

Vol.73「endless thema - 68」(12年01月)

 

--------2012年/賀状に竜舍

 

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皆既月食

 

2011年の12月10日の深夜から11日にかけて皆既月食があり、
シャッターは押したもののなかなか上手く撮れなかった。
なんだかんだとしている間に徐々に月の明るい部分が大きくなり始めた。
寒いのに輪を掛けて、風呂上がりなのに体の芯まで冷えてしまった。
「おお~さぶ。」
肉眼では綺麗に見えているのだが‥‥。
残念ながら腕の悪さは未だに健在?って言うことで終わった。
七転八倒の末の、なんて事の無い写真となってしまった。
廻りの点々はトップライトに付いた結露を拭いたのだが、
焦って拭ききれずに残った水滴。
次回月食皆既月食となるのは、2014年10月8日の19:24らしい。

毎年の賀状はシリーズでその年の干支にちなんだ古建築の語彙を紹介している。
昨年はうさぎで「兎毛通/うのけとおし」(バックナンバー2011年01月号)。
今年はたつで「竜舍/りゅうしゃ」。
日本の寺院にある塔婆の屋根のてっぺんに立てられている部分全体を相輪と呼ぶ。
その相輪の一番上方にある二つの珠の上のほうを宝珠と呼び、
その下の珠を龍舎/竜舍と呼ぶ。

相輪には、下から路盤、伏鉢、請花、宝輪(九輪)、水煙、竜車、宝珠とあり、
その形状形体は塔全体のプロポーションを決定するにふさわしい部分でもある。
平安中期(天暦五年/951年)の建立で国宝に指定されている醍醐寺の五重の塔。
その相輪は優美で、九輪の上方に設けられている水煙はなかなか美しい。
屋根の隅木に飾られた宝鐸、そして相輪の九輪や水煙にも宝鐸が飾られ雅やかである。

 

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醍醐寺五重塔の相輪 / 東寺の五重塔の相輪 / 仁和寺五重塔の相輪

 

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醍醐寺水煙と竜舎 / 東寺の竜舎 / 仁和寺の竜舎

 

国宝教王護国寺(東寺)の五重の塔と重要文化財仁和寺の五重の塔の相輪は、
すっきりとしたプロポーションを持つ。
球体をした醍醐寺の五重の塔の竜舎に比べ、少し縦長で俵型をした竜舎である。
塔婆全体に比した相輪自体の大きさの違いや
宝鐸が飾られていないということもシンプルさを感じる要因だろう。
どちらも江戸期(寛永二十一年/1644年)建立の和様の建築様式で
古い時代の造りが随所に見られる。また東寺の五重の塔は国内最大の高さを誇る。

塔婆とは卒都婆/スツーパからきている。
日本に仏教が伝ってくる以前のインドでは、スツーパは伏鉢形をしており、
お釈迦さまの遺骨を納めた舎利を奉蔵した舎利塔が始まりと言われている。
ご存知の事と思うが、仏教はインドから中国そして朝鮮半島を経て日本に伝わってきた。
その途中スツーパは中国に渡った時それが塔の上にのったと考えられている。
日本への仏塔の伝承はあまり解っていないらしい。
古くは塔の心柱や心礎に空けられた穴に舎利を納められていたが、
後に塔の初層に須弥壇を設け
安置されるようになりそれが現在の形式に至るようになった。
また、塔婆は形態的に、平面的にも重層的にも多種多様である。

 

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醍醐寺五重塔

 

当然のことながら建造物は構造的な見地や屋根の軒やそのそり具合、
組物などの話が中心となってしまう。
装飾品や歴史を学び時代背景から解けることや、
他分野など違うものの見方から線が繋がることも多い。

短い話で沢山の事をお伝えするのは難しい。
しかし、それが何かの取っ掛かりとなり、興味を抱いて頂けたらと考えています。
最後に、塔婆の文献は多種に渡り出版されていますが、
下記にいくつかの資料文献等を追記しておくことにします。

 

□参考文献等

近藤豊「古建築の細部意匠」大河出版 1967年
日本の美術10「塔、塔婆・スツーバ」no.77 石田茂作編 至文堂 1972年
「日本建築史基礎資料集成 十一 塔婆 1」中央公論美術出版 1984
朝日百科 日本の国宝 別冊「国宝と歴史の旅 8/塔、形・意味・技術」朝日新聞社 2000年

 

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